祖父はオーストリア・ウィーンの名士。しかし親からの援助はなかった。68年、19歳のときにミニでレースを初め、ポルシェ、フォーミュラ・ビーと進級する。F2を始めるにあたって銀行から8千5百ポンドを借金し、マーチ・ワークスのシートを買う。71年地元オーストリアGPではマーチに乗ってF1デビューする。グリッド最後尾。72年にはF1/F2にフル参戦させてもらうべく銀行から今度は3万2千ポンドを借金、マーチに支払う。万一借金が返せない場合は、自分の生命保険で埋め合わせるという強引さ。その72年もF1グランプリでまったくいいところはなく、入賞ゼロ。73年、信頼性の低いBRMの3台目の駆ってしばしば好走し、そのときのチームメイトだったクレイ・レガツォーニが74年にフェラーリに復帰する際、ラウダを推薦する。ラウダは、それまでなかなか発揮する場のなかった明晰な頭脳を駆使し、強い信念をもってマシン開発に尽力した。走りこむことによって自らの潜在能力を全面に引き出す術も身に付け、自信を付けていく。そして、ラウダは優勝戦線の一角に名を連ねるに至り、借金の返済も終了した。

「何かを私に教えてくれた唯一の人、そして私にとってのアイドル」
「彼はマシンの技術面にも関心を示し、仕事に厳しく、厳格な人だった。好奇心旺盛で、すべてを知りたがっていたし、何でも把握していないと気が済まないタイプだった。私たちはふたりともエゴイストだったけれど、考え方が似ていた。流れるような、飾り気のない、地味なドライビング・スタイルも似ていた。ニキと出会ったことで、私は多くのことを学んだよ。ニキは私にとって普通の人ではなかったということさ。私は彼の大ファンだったし、ニキから頼まれたら、どんなことだってしただろう。私にとってニキはアイドルであり、尊敬できる先生でもあった。」


1977.ニキ・ラウダ「F1の世界」より

1976年8月、ラウダはドイツ・グランプリで重傷を負い、一時は生死を気づかわれた。同年10月13日、全快した著者は英国BBC放送のテレビ番組“スポーツの夕べ”に登場、負傷とその後の経過について司会者ハリー・カーペンターと語り合った。その記録をここに紹介する。
1977.ニキ・ラウダ「F1の世界」より
「人間ニキ・ラウダ」 (ヘルベルト・フェルカーとの対話) 1985.「ターボ時代のF1」より
「判断」
「ニキはやっぱりナミのチャンピオンではなかった。」
1990.「F1グランプリ」全発言より
「F1を速く走らせる条件」 1993.Vol.4 「F1倶楽部」より
「ニキ・ラウダ不屈の意志」 2000.「Number PLUS」より
「恐怖を克服する精神」 2000.「Number」502号より
“ラット”を網焼きにする
2001.「F1 RACING」より