ミハエル・シューマッハー、勤勉なる魔法使い。
 すべてのF1チームが彼を走らせることを夢見る。すべての自動車メーカーが、彼を自分たちのチームに招くことを考える。しかし、どんな好条件も効力を持たなかった。そう、スクーデリア・フェラーリが彼の注意を引くまでは。神話の力、法外な契約金、世界的なイメージ。そしておそらく、その挑戦の法外な大きさが、彼を惹きつけたのだ。
 しかし彼の挑戦は毎年、予想よりも大きな困難を示した。ドライバーの才能だけでは、十分ではないのだ。彼はこう認めている。
「今日、成功の鍵は技術と人間が半分ずつ握っていると言っていい。マシンとドライバー、それぞれが50%ずつだね。マシンにかかる分を100とすると、タイヤが30%、エンジンが30%、シャシー/サスペンション/エアロダイナミクスを合わせて40%というところだろう。でも、ドライバーが握る50%は決して変化しない。それを左右するのはきっと才能であり、とりわけ仕事だと思う」
 才能は、彼が持って生まれたものだ。フェラーリの監督ジャン・トッドは、彼には1周あたり1秒速い“価値”があると言って契約したのではなかったか?時を経て、スクーデリアのボスはその考えを少し修正した。おそらく、1秒はない。しかしコンマ何秒かの価値があることは確かだ。
「いずれにしろ、ミハエルが現役の中で最高のドライバーであることは確かだ。普通にしていても、彼は非常に速く走ることができる。普通以上のことをすれば、例外的な速さをも実現できる。ここ何年かの間、彼のライバルはヒル、ヴィルヌ−ヴ、ハッキネンと変化してきた。非常に優れたマシンがあれば、成績を残せるという証拠だ。しかしミハエルは、マシンの競争力にかかわらず、常に、コンスタントにタイトルを争っている。彼はマシンのハンディを自分自身で引き受けることができるんだ」
 シューマッハーには人より優れた才能、他とは違うアプローチがあるだろうか?
 テストの際の、彼の一日を観察すれば答えは明らかだ。ピットガレージの中、彼は内に秘めた確固たる力と、信じられないほどの自信を発散しながら、所狭しと移動する。彼が何か言葉を発しようとすると、他の人間は即座に黙り、耳を傾ける。ほとんど“信心深い”と言っていい神妙な態度で、地面を見つめながら。人間的にどう捉えられようと、ドライバーとしてどう分析されようと、彼には圧倒的な力を発散することが可能なのだ。
 ベネトン・チームのテクニカル・ディレクター、
パット・シモンズは、トールマン・チームでアイルトン・セナのF1デビューに立ち会った経験がある。
「今までの人生において、シューマッハーのように完璧なドライバーは他にひとりしか知らない。アイルトン・セナだ。ベネトンで出会った当時、ミハエルは1周か2周走った後、ピットに戻って来て言った。『こことあそこがうまく行かない。だから、こういうふうに試したいんだけど……』。最初、私は彼を信じなかった。自分をエンジニアだと勘違いしているのか、あるいは自分を大きく見せたいのだと思ったんだ。でも、この考えは変えざるを得なかった。
 マシンのひとつの動きに関して、総括的な情報を与えるに留まるドライバーもいるが、ミハエルの場合はコーナーごと、自分が採用したドライビングごとの詳細を述べることができる。彼には、問題を個別に摘出することが可能なんだ。その後、彼はセッティングに関するアイデアや示唆を与える。
 あまりに正確な彼の言葉を聞いて、我々はマシンの症状に判断基準となる段階を定めた。たとえばアンダーステアについては、1〜5の5段階というふうに。彼がアンダーの度合いを3と表現すればそれは正確に3であり、我々は3カ月前に経験した2、あるいは4レベルのアンダーステアと比較することができた。そうして、自分達が進歩したのか後退したのか、理解できたんだ。
 もうひとつの力は、見事な適応能力だね。様々な状況に応じて、彼は自分の走行ラインを変えることができるんだ。‘94年のスペインGPでは、彼のマシンのギアが5速にロックしていたなどと、誰も信じたくなかった。他のドライバーなら新品のギアボックスでも出せないようなタイムで走って、2位でゴールしたんだからね!しかし、それは真実だった。彼はただ単純に走行ラインを変更し、ブレーキングゾーンを変更したんだ。あの時は本当に大きな衝撃を受けたよ」

 ルノーのテクニカル・ディレクターを務めた
ベルナール・デュドも讃辞を惜しまない。
「彼のアプローチは決してエンジニアのものではない。ドライビングの快適性とエンジンの使い方を非常に熟考する、ドライバーのものだ。彼の指摘や要求によって、我々のエンジニアたちはそれまでなかったくらいの仕事をしたよ!彼の主張や、彼との会話がなければ想像すらしなかったような方法さえ、考えたことがあった。
‘95年、興味深いことに、彼はベネトンのマシンに速度計を望んだ。他の誰も求めなかったアクセサリーだ。彼らが見るのは回転計だからね。ミハエルは単純に、いくつかのライン取りが可能なコーナーで速度計を利用したかったんだ。最速のラインを確認するため、彼はすべてのラインを試し、他より時速数q速く走れるラインだけを選んでいった。私にとって、アラン・プロストは無駄がなく、正確で、マシンに対して優しいドライバーの模範だった。彼は自分のマシンと調和することができたんだ。ミハエルはアランと同レベルに到達していたと言っていい。その上に、セナの攻撃性を兼ね備えながらね!彼が、自分自身の経験だけでそこに到達しただけに、感銘は大きい。彼は誰からも学ばず、自分自身の“学校”だけで学んだんだ。彼が、自分より速いチームメイトと組んだことは一度もなかったから。それは、頭脳による膨大な仕事の結果だった」
 フェラーリのテクニカル・ディレクター、
ロス・ブラウンが、ベネトン時代、シューマッハーと出会って即座に気づいたのは、彼が非常に論理的である点だ。
 「議論の進め方においてもドライビングにおいても、彼は非常に論理的な人間だ。エンジニアにとって、ドライバーの言葉に解釈を加える必要がないのは、大きなアドバンテージだね。ピットに戻るたび、彼が我々にもたらす情報は、テレメーターよりも正確に多くを説明してくれる。今日のテレメトリー・システムでは、画面上で“マシンはアンダーステアで3コーナーに入るが、ドライバーはアクセルを少し開くことによってコーナリング中のマシンをオーバーステアに変化させることができる”と読み取ることが可能だ。しかしミハエルはそれに加えて“アンダーステアによってどれだけタイムを失っているか”を、10分の1秒単位で指摘することができる。そして、より素早く再加速するにはアンダーステアをそのまま残すのがよいか、ニュートラルにすべきか、判断できるんだ……。
 私はプロストともセナとも一緒に仕事をしたことがない。しかしミハエルは彼らと同じクラスのドライバーだと思う。したがって、我々は常に彼の意見に耳を傾ける。セナが、マクラーレンで非常に傾聴されたように」

 ミハエル・シューマッハーのドライビングやセッティング能力は、どのように分析すべきだろう?本人は、これに対する指数を与えようとしない。
 「誰もが僕のドライビングを分析しようと試みた。でも僕自身でさえ、ドライビングを徹底的に分析することなどできないんだ。あまりにも多くの要素が関わってくるからね!その中には本能も含まれる……だから、そういう仕事はジャーナリストに任せるよ」
 それでも、試みた人間がひとりいる。
イグナツィオ・ルネッタは‘99年の日本GPまでシューマッハーのレース・エンジニアを務めた。彼が最初に気づいたのは、シューマッハーのドライビングが、セナ、あるいはアレジのものと、そうかけ離れていない点だ。
 「彼のドライビングを目で追うと、マシンが生きているような印象を受ける。彼はフロントの位置を決め、リアを使ってラインをたどっていく。マシン後部は一種の方向蛇の役割を果たしているんだ。だから彼は、リアが軽く、フロントに大きなダウンフォースをつけたマシンを好む。したがってマシンはステアリングの小さな動きにも敏捷に反応する。
 十分な速さを保ちながらコーナーに入ると、彼はブレーキを踏み、フロントの位置を決め、後輪を流れるままにする。そして細かいアクセル操作によってリアをコントロールするんだ。左足は常にブレーキペダルに、右足は常にアクセルペダルに置かれている。そうしてエンジン回転をトルクの発揮できる範囲に保てば、エンジン効率の急降下はなく、荷重移動によるマシンの大きな乱れもない。エンジン回転を保つことはまた、リア・ウイングに安定した排気を送ることにもつながる。そして前輪が真っ直ぐになると同時に、彼はアクセルを踏み込み、知覚できないほど細かなステアリング操作によってフロントを修正しながら加速していくんだ。
 非常に正確な操作と、ドライバーの鋭敏な感覚が要求されるドライビングだよ。通常のセッティングのマシンと比較すると、ミハエルのマシンには動きの予兆がまったくないだけに、一度ラインを外れると、もう遅い。彼はしたがって、マシンからのフィードバックはまったく利用せず、その動きのひとつひとつを、自ら正確に予測しているんだ。そして常に剃刀の刃のようなライン上で、かぎりなく繊細なドライビングを行なっている。
 大部分のドライバーが行なうように、少しアンダーステア気味にマシンをセッティングすれば状況は逆になる。彼らはマシンの反応から情報を得て、それに従って運転する。フロントが少し流れればアクセルを少し閉じてステアリングを少し大き目に切ればいいんだ。残念ながら、このテクニックではフロントタイヤが摩耗する上、曲がりくねったコースで速く走ることはできない。でも、それがいちばん快適なドライビングではある……」

 シューマッハー自身の言葉を聞いてみよう。「ドライビングに関して僕が言えるのは、グループCでの経験から、いかなる状況でも速く走るための多くを学んだということだ。スペクタクルに譲歩し過ぎることのない、無駄のないドライビングでね。スポーツカーでは、レース距離の長さとタイヤの摩耗を抑える必要性から、そういうドライビングが必須だった。F1では、それがライバルやチームメイトに対するアドバンテージとなった。他に言えるのは、もっともきれいにコーナーを回ることに専念している点くらいだね。僕のテクニックは、とてもバランスの取れた、できればニュートラルなマシンを必要とする。アクセル操作によってそのマシンをライン上に保つんだ。この方法を採用するドライバーは数多いけれど、彼らのはギクシャクし過ぎているんだ。そのため速度を失い、タイムを失う。コーナーの入り口、あるいは真ん中、あるいは出口で限界を見出すドライバーもいる。でも僕はコーナリング中ずっと、できるかぎり丁寧に、剃刀の刃を正確にたどることに全力を尽くしている」
 しかしその能力がどこから発生しているのかは、彼自身、明言することはできない。
「ゆりかごの能力を運んでくれた妖精なんていなかったからね!生まれつき僕がそうなのか、経験がそれをもたらしたのか……言えるのは、僕が機械に対してすごく興味を持っているということ。きっと、エンジン1基を解体することもできるよ。ただし、もう一度組み立てることはできないだろうけど。
 僕はマシンの様々な分野の間に存在する関連性、種々のセッティングがもたらす結果、それが各分野に与える相互作用といったことを学んだ。たとえば、モンツァのコースに合わせてマシンをセットアップするには、最高速と、シケインのためのブレーキが最優先だ。そして縁石上を通過するためには柔らかいサスペンションも必要だ。これが、セオリーだね。でも実践では、正反対のことが求められる。アスカリ、レズモ、パラボリカではとても安定したマシンが必要で、したがってエアロダイナミクスによるダウンフォースは大きく、サスペンションは硬い方がいい。そう、モンツァの秘訣は存在しないんだよ。それぞれのセクターで求められる要素の、妥協点を見出すことが必要だ。“魔法のレシピ”などまったくないんだよ」

 魔法はない。しかしレシピはある。彼の長所のひとつは、そのレシピを完成させるため、すべてを学び、理解しようと努めるところだ。彼は決して、ひとつのセッティングを投げ出したりしない。今日はそれでうまくいかなくとも、明日にはうまくいくことがあるのだ。そして必要なら、ドライビングを変えることもできる。
 
冷静、明晰、論理的、観察力、記憶力、感性……シューマッハーについてエンジニアに訊ねると、絶えずこの6つの言葉が繰り返される。
「僕の中にある冷静さは、きっと長所だと思う。ドライバーがチームにもたらせるものの中でも、絶対に守らなければならないのは、チームにプレッシャーを与えないということだ。それでなくとも、ジャーナリストやスポンサーからは十分なプレッシャーが与えられているんだ。チームが苛立つと、望んでいるのとは正反対の方向に進んでしまう危険が十分にあるんだ。冷静さは、仕事に安定をもたらすことができる」
 この冷静さとともに、彼の大きな力となっているのは、毎日の注意深いトレーニングによって維持されている身体的な強さだ。ふたつの力は関連していると言っていい。
「もちろん、F1では身体も重要だ。モナコやブダペストのコースを、170とか180の心拍数で2時間走り続けることを想像してごらん。ドライバーは憔悴し、集中力を失い、ミスや事故、ペースの低下が起こる。常に心拍数140で走れるのは、冷静さを保つアドバンテージだね。同じ仕事をしていても、他のドライバーは限界を超え、自分は限界内に留まることができる。自分自身が疲労を感じるような時には、他のドライバーは心臓発作の寸前か、失神しそうになっていると考えることができるんだ。
 スタートを待ちながらガードレールを背にして座っている時、あるいはしばしばドライビング中にも、僕は自分の心臓の鼓動を耳にする。喧騒や様々な動きの中でも、まるでそれだけが独立しているように。それは、僕が自分自身の世界に閉じこもり、周りの動きを感じなくなるほど、ものすごく集中している証拠なんだ。自分だけが別の世界にいるような気分だよ。
 F1にデビューした当時、自分が呼吸や思考、集中力をコントロールできると知って、もっとも驚いたのは僕自身だった。そういう場合には、不思議なことが起こる。様々な記憶が蘇り、しばしば、それまでに経験したレースの映像が頭を横切る。‘96年のスペインGP、僕はフェラーリで初めての勝利を飾った。信じられないような大雨の中、アレジの45秒前でね。いったいどうやって、1周あたり4秒もリードしていったんだろう?ウエット状態ではマシンの動きが突然良くなり、自分のペースをつかめたという以外、説明は不可能だった。それでも、コンディションは常に注意を要する。とても危険なものだった。僕は自分でも気づかないまま、そんなドライビングを行なっていたんだ」

 厳格、規律。それを、冷淡と表現する人間もいるだろう。たしかに、シューマッハーは自分という人間とドライバーの間、F1と私生活の間に壁を作っている。
「僕の中に一種のロボットを見る人、自信たっぷりで尊大な奴だと言う人もいるだろう。それはまったく真実ではないよ。僕は普通の人間だし、普通の仕事を普通のやり方で行なっている。ただ、勝利のためにだけ生きていることはたしかだね。したがって何もおろそかにすることはできない。そして、良くも悪くも、人間関係や感情に押し流されることがあってはならない。だから、僕は人混みや騒音や喧騒から離れて静かな私生活を送り、同時に、パドックでは強化ガラスの向こうにいるような印象を与えるんだ。
 もっとも大切なのは少なくとも僕自身にとっては、自分に対する信頼と勝利への野望だ。それによって、常に自らの限界まで攻める力が与えられる。同じことについて来る日も来る日も研究を重ね、時には無茶なリスクもおかすことができる。たとえ、技術的には勝利のチャンスがないとわかっている時にさえ

 シューマッハーは天才だろうか?
 おそらく、そうではない。しかし彼は、他の者には不可能なほど自分の仕事に専念し、正確にそれを学んだのだ。そしてまた、自分のためだけに仕事をしてくれるふたつのチームに出会った。彼が建てた城塞では、彼だけが王子なのだ。F1ドライバーのキャリアにおいて、もっとも困難な競争はそこにある。そしてこの競争に勝てば、あとはシーズンを通して性能と信頼性を備えたマシンを手にするだけでいいのだ。今年、彼は最後の要素を手に入れるだろうか?
 いずれにしろ、タイトルの数に関係なく、ミハエル・シューマッハーがすでにF1の歴史にその名前を刻んでいることは確かだ。